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【映画レビュー】『天気の子』はほんわかしたエヴァ破だ!

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※ネタバレありのレビューとなります

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はじめに

まず先に結論から申しますと

君の名は。』が『E.T.ならば『天気の子』はほんわかした『エヴァ破』だと感じました

 

↑↑これだと表現が抽象的すぎるだだろ!!o(怒`・ェ・´)ノ コリャー!!

相変わらずだらだら文章が続きそうなので、今回は先に結論から入りましたがこれじゃあ伝わりにくいですよね。(ごめんなさい)

 

 

『君の名は』=『E.T.』説


まず『天気の子』についてのレビューを行う前に監督『君の名は。』について触れようと思います。

 

 

新海誠作品(少なくとも長編作品は見ている)を見ていると、
『君の名は』のラストのハッピーエンド展開には当時衝撃を受けました。

 

自分としては新海誠監督の根っこの部分にあるものはご都合主義的なハッピーエンドよりも『秒速五センチメートル』の最後のように声をかけることなく映画を終了させるところにあると考えていたからです。

 

しかも『君の名は。』ではラストの”すれ違う→話しかける“というあたりは『秒速〜』のラストと同じシチュエーションですからね、

 

「おいおい、この展開は、、、??」

 

性格が悪いというか根が暗い僕はすごく『秒速〜』を期待していたので、RADWIMPSの良い感じの音楽『なんでもないや』が流れて超ハッピーエンドという、山崎まさよしのあの曲を聴きながら苦い思いをすることがなかったのです。

 


僕は『君の名は。』のあのラストがダメだとは全く思ってもいませんし、むしろ正解だったと思います。


新海誠監督の初メジャー作品となるとコアなファンとは違って一般のお客さんもターゲットにする必要があるので、
最大公約数的に作品を作っていく必要があります。

 

 

そうでありながら、これは【まるで○○論法】と僕と弟は呼んでいるのですが、
登場人物のくせのあるナレーションと少しオシャンなセリフを話す直前に接続詞として「まるで」といったんセリフに間を開ける感じがあったり、
彼女のとのつながりそのものが、生きている世界や社会のなにかとリンクしていたり、
当然あの圧倒的な絵の美しさがあることで 新海誠らしさも残したうえで、より幅広い客層にむけた作品にしていました。

 

これらの事から『君の名は。』はスピルバーグの『E.T.』と同じではないのか?
と考えています。

 


未知との遭遇スピルバーグの初期作品で最後がなかなか攻めたオチで
散々、変人扱いされてきた主人公の主張が実は正しくて、家族との和解など描くことなく「ざまあみやがれ!」的なノリで宇宙人とともに地球を飛び立つんですよ。笑

 

それに対してE.T.は最後の最後で主人公の少年は「地球に残ること」を選択します。

 

E.T.』はスピルバーグが『レイダース失われたアーク』を経て、みんなにウケるように未知との遭遇』のような攻めたオチにするのではなく、最大公約数的な作品にした顕著な例だと思います。

その後の彼のフィルモグラフィには若い頃の攻めた描写や展開が入ることで、常にコアなファンの心も離さないようにできています。

 


話を戻しますと、
君の名は。』はいつものように自分のカラーを出しまくって最小公倍数的な設計にしてコアなファンからの指示を得るのではなく、劇場の多くの人が楽しめるような最大公約数的な設計にしたからこそ、あのハッピーエンドがあり大ヒットにつながったのだと思います。

 

 

だから僕は『君の名は。』という作品は新海誠監督にとっての『E.T.』のような作品だったと考えてみます。

 

未知との遭遇』『E.T.』は40年も前の作品なので割とストーリーの核心に触れましたが、どちらも傑作ですのでお勧めします。

 


『天気の子』=ほんわかした『エヴァ破』説


前述したように『君の名は。』は『E.T.』メジャーデビューとして最大公約数的に作られた作品だと考えました。

もしも『君の名は。』が『E.T.』ではなく『未知との遭遇』のような、僕が大好きな攻めたセカイ系の作品だったら、


「流星の災害でみんな死んでも君だけが助かれば良いんだ!」


みたいな展開だったら最高に好きなのにな〜なんて考えてしまいます
という自分の根が暗い陰キャな部分が発動してしまうのですが、

『天気の子』はまさにそういう映画だったんですよ!!

 


東京の街が雨に沈もうと構わない、あの子に会えるのならば!

 


というかなり好みが分かれる作りだと思います。
でも僕はこの展開がすごく好きで、
中高生からしたら大人たちによって形成されてる世界や社会なんてクソほどどうでもよくなる瞬間があって、
たいていの人たちはそれに押しつぶされるか、自分も年を重ねて他の大人たちと同じようにその世界に組み込まれていくのが現実です。

 

だからせめてフィクションの世界くらいはその純粋な想いがまかり通っても良いのではないか?

リチャードドレイファス(『未知との遭遇』の主演)のように宇宙人とともに地球を捨てたって良いじゃないか、
と僕は考えます。


今回の『天気の子』の彼女と再会する代償として東京を水没させたわけですが、
これはセカイ系のアニメの元祖にして頂点(だと思っている)ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』(2009)のクライマックスと重なりますよね?

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1人の女の子にまた会うためなら世界なんかどうにでもなっちまえという作品でした。

まあただエヴァはそれによって人類が滅びかけましたが。笑

 

先程君の名は。』は最大公約数を狙った作品と述べましたが、
『天気の子』は対照的に最小公倍数を狙った作品だと考えられます。

 


間違いなく東京が水没した時点で劇場の何割かは楽しめなくなったと思います。

 

 

ここまでは良いんですよ、


でも自分はこのような捉え方をしているため最後の最後が納得できませんでした。

 

なぜなら東京を水没させたことによるパニッシュメントが足りなすぎるからです。

 

エヴァ:破』の最後で彼女と会うために世界を滅ぼしかけたこに対して、続編のヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qではひたすらその事を責められ続けるんですよ。


14歳の少年には酷な展開かもしれませんが、それだけ皆んなに責められてんも、世界を滅ぼしても、“あの時彼女と再会できたんだ、責められても仕方がない”と思えるわけです。
だからこそ『エヴァ:Q』は自分のわがままな選択によって生じた亀裂を修復しようと空回りする話だったわけですし。

 


『天気の子』も彼女と再会するために拳銃の不法所持や発砲(殺人未遂)までしたわけですし、もう彼女と再会できなくたってよかったのでは?
と考えてしまいます。

東京の街が沈みました→もう彼女とは会えないけど、あの時会えたんだ

これで終わりでもよかった気がするんですよね。

 

 

仮にあのように再会させて主人公を幸せにさせててあげるならば、
きちんとしたパニッシュメントや代償を主人公に負わせるべきで、
それを経てから彼女と再会した方が良い気がします。
あの映画の中だったら保護観察を受けてる島での3年間をもっと島流しの流刑のように描くとか。

 


最後のしれっとご都合主義的に再会できてしまうのは、
最小公倍数の観客にむけて作ったのに、最後の最後で最大公約数を意識する必要があったのか?

もう劇場の中でついてきてるお客さんが減ってきてるのに、なぜ最後にみんなが楽しめるようなハッピーエンドにすることでむしろそれがアンバランスになってしまったと思います。

以上のことから私は『天気の子』=ほんわかした『エヴァ破』説を展開しました。

 

 

最後に

今後の新海誠作品は楽しみですが、
きちんと主人公にパニッシュメントを与えた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの完結編が来年公開されるので、
果たして庵野秀明監督はシンジくんをそろそろ幸せにさせてあげるのか?
楽しみでなりません。


読んで頂きありがとうございました。

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