【リドリースコットばりの創られし者達の宿命を描いた傑作】
いつも感想はDVDで確認しながら書くので、これは自分の速報値的な感想となります。
あとネタバレ有りなのでご注意を。
トイストーリー4は賛否両論分かれていますが個人的には大賛成!
先に1点だけよくないなと思った点を挙げるならタイトルに『4』を付けてしまった事くらい。
すごく当たり前のことですが、『4』という数字は
1.2.3.4・・・
と連続する自然数なわけです。
要するに『トイストーリー1〜3』で描いてきたことの”続き”を意味していることになりますし、『1〜3』は過去作との繋がりが強く非常に連続性が高いシリーズだけあって、殊更に『トイストーリー4』の『4』の部分が浮いてしまっているんですよ。
何故、そこまで『4』という数字を否定するのか?
それは間違いなく今作は『1〜3』で描いてきた事の否定、逆を描いているからです。
まず『トイストーリー』というシリーズはアンディには父親の存在が描かれておらず、離婚しているのかよくわかりませんが、壁に掛けられてる写真にすらいないのでもう存在がないというスタンスをとっていました。
それはつまりおもちゃたちが”父親の代わりになる”というのと、おもちゃたちが自分の役割=父性に気付くことで”父親になっていく”事を描きたかったのでしょう。だからアンディの父親を描いてしまうと、それはもう父親の完成形となってしまうので存在そのものを消し去るという手を使っていたのです。
だからこそみんな公開前は「『3』の続編なんていらない!」って怒ったんですよね?
『3』でアンディは大学生になり、家を出て自立していったわけです。
つまりおもちゃたちは自信の役目を果たした事になります。
だからこそそれより先の物語を紡ぐ事に嫌悪感を抱いたのではないですか?
『3』のラストでボニーに引き取られたおもちゃ達の物語なんて結局は『1〜3』の繰り返しになってしまうのではないか?
そう思いますよね、
それらを逆手に取ったのがこの『4』の魅力なんです!
まず冒頭から普通にボニーの父親が出てくる!笑
これは「え!?!?」って驚きましたね。
しかも円満な夫婦なんですよ。
てことはですよ、この冒頭が意味しているのは『トイストーリー1〜3』で一貫して描いた”父親像の確立”、”父性の模索”を描く物語ではない!
と宣言されたわけです。
この辺りも自分は『4』ではなく番外編にした方が良いのでは?と感じた点です。
それでは今作ではなにを描いたのか?
それは『1〜3』が【個人の役割を全うすべき】という事を描いたのであれば、
『4』は【個人の自由と幸福を追求すべき】というのとを描いたのだと思います。
これはもう中々思い切った方向転換というか、過去作を否定していると受け取られてもおかしくないレベルです。
だけどそのテーマに辿り着くまでの導出過程がめちゃめちゃ上手い。
まず冒頭でおもちゃは飽きられたら捨てられ、もしくは他人に引き渡されてしまう事を描きます。
これって面白いのがアンディが自立するまでに父親のように見守るのが彼らの役目なのに、おもちゃ達は途中で子供から捨てられることがあるという事ですよね。
つまり子は親を選べないが、子はおもちゃを選ぶことができる、そこから人間とおもちゃの間の逆らえない主従関係を示しているのです。
そうなってくると『1〜3』で描いた関係性がずれてきますよね?
それを象徴するのが新キャラクターのフォーキーです。
これまでもおもちゃは工場で作られてる事がわかりましたが、フォーキーはボニーが幼稚園でゴミである先割れスプーンを組み立てて作ったおもちゃです。
またこの場面が後光が差し込んでて、生命の創造というか神々しさがすら感じさせます。笑
だからこの場面がある事で、
おもちゃは人によって創られた存在、いわばおもちゃにとっては人は絶対的な神のような存在なんだと示しました。
フォーキーを描いて人間には逆らえない事を示しているからこそ、ウッディに対して「そろそろおもちゃとしての仕事は辞めて、自分の幸せを追求したら?」という展開にスムーズに繋がるようにできているんですよ。
だから極端に捉えれば奴隷とかと変わらないよね?という事もできなくはないです。
この話運びの巧さはさすがピクサーですよね〜。
そろそろ結論部に入ると、『トイストーリー4』はすごくリドリースコット監督作品みたいに見えてきませんか?
具体的に挙げれば『ブレードランナー』『プロメテウス』『エイリアン コヴェナント』みたいな話ですよね。
もちろんリドリースコット作品ではないので、創られし者達が創造主を殺してまわりるみたいな展開にはなりませんが。笑
宿命を遂行していく創られし者達に”自我がある”という点は一致しています。
創造主の使命には逆らえない悲しさを感じさせられるとは思ってもいませんでした。
しかもウッディやバズは自らの自我を「内なる声」と表現するのもすごい。
バズはそれを人に作られた内臓音声だと捉える、でもウッディはそれとは別の、音声のバーツが奪い取られても聞こえてくる声に気づく、それは自分のゴースト=自我であると。
この会話って『攻殻機動隊』でもやっていましたよね。あれも全身を義体化した者達が自我と捉えてる物も人に作られたものなのではないかと疑う場面とそっくりです。
だからこそですね、
ウッディは誰かに拾われたいおもちゃを子供に拾ってもらうようにし、
自分は子供から解放された自由な生活を選択するラストにグッときたのです。
彼は十分にアンディという少年を立派な大人にした、もうそろそろ安らぎを得ても良いのではないか?
自我がある存在なのだから好きにしても良いのではないか?
以上の事から自分はピクサーはわざわざ完結した作品の続編を作ってまで、ウッディというキャラクターの魂を解放させたかったのだと思います。
いくら過去作のテーマ性に抵触しようとも、
ずっとずっと使命を全うしてきたウッディを見てきたなら言いたくなるはず、
「それで良いんだよ」と。
素晴らしい作品でした。
長文読んで頂きありがとうございます!
【追記】
あ、そうそう劇中で悪役としてベンソンってキャラが追っかけてくる場面が怖いんだけど
これってさダリオアルジェント監督の大傑作『サスペリア2』のさ
これを意識していると思ったのだが気のせいかな?
まぁどっちでも良いか。
『サスペリア2』は語ると時間がかかるのですが、
とりあえず英題は『DEEP RED』
そう!あの『サスペリア』の2作目ではありません!
邦題詐欺ですので、ぜひ見てください。傑作ですので。
一応、プライムビデオのリンク貼っておきます。
※2019年7月21日現在、プライムビデオでは『サスペリア2完全版』が2種類あり、全く違いはありません。
とりあえず片方は購入もできないので、下のamazonのリンクの方はレンタルが可能となっております。